よはく

個展がおわった。

見にきてくれた写真家の高橋こうたさんと友だちになった。

あたしはずっと前から、ひとが自分の絵を「記憶」とつなげてくれると嬉しくなった。
あたし自身が過去の中で生きてるような人間やから、とおもってた。
もちろん、きっとそれはあるんやろう。

こうたさんは展示してあった1枚の絵を見て、祖父母を思い出して涙が出そうになった、と言ってくれた。
絵の中の建物が、どこか祖父母の家に似てるんだと。

それ以外にも、スケッチブックを見て、見たことある景色がいっぱいあると言った。

実際に見たことがあるんではなくて
それは、「見たことがあるような気がする」景色。
だから懐かしい気がする。
記憶の肩をやさしくたたくような。

そんなつもりで描いてるわけではないけど、まったくの他人があたしの絵をみてこんな風に感じるとき
なんてあたたかい気持ちになれることか。。


こうたさんとあたしはこのことについてだいぶ話した。

あたしの残す余白がそうさせてるのではないかというところへたどり着いた。

細かく描くところと、余白を残すことで表すところ。
輪郭や印象だけ捉えるところ。
ひとは、その余白を自分の記憶で埋めるのかもしれない。
みんなそこを自由に、自分勝手に補えるから、自分が安心する風景にしてしまえるのかもしれない。
詳細な部分とそうでないところが混在してることも、記憶と似てる。


後日、デザイナーの転法輪さんという方もきてくれて、いろんな話をした。
こうたさんとの余白の話をしたら、「歌みたいですね」と。
「歌も、シンプルな言葉であればあるほど、聴く人が自分を重ね合わせやすいでしょ」
たしかに。
この例え方もまた良いな、とおもった。

書き留めておきたいことやことばを、たくさん見つけさせてくれた展示になった。